山頂へと続く稜線に取りつく頃には、出発から随分の時間を費やしていた。風化した花崗岩の痩せ尾根には、積年の風雪に耐える歳老いたハイマツと、粗削りな岩塊以外には、これと言って迎えるものはない。背景の青いカンバスに描かれた繊細で透き通る巻雲は、秋空の高さをいっそう際立たせていたが、それは同時に、ここが蒼い宙に比べれば、いまだ下界の域にある事を思い知るのに十分な根拠となっていた。
重き荷を背負いて、どれほどの距離を踏んだであろうか。今ここに至る達成感や、わずかばかりの自負心は、ピークへと続く砂礫の道を踏みしめる音と共に沸き上ったが、ヒューヒューと頬をかすめる風とともに麓へ下って行ってしまった。
空身の二本足でたどり着けるのは、このくらいまでだろう。海面よりわずか数キロメートル、地球の半径およそ6300キロメートルに比べれば、微々たるものかもしれない。しかしそこは、日常では見落としてしまうような「気」の存在が、眼下の山肌に刻まれた荒々しい痕跡とともに、ありありと感じられた。
電車が動いたり、明かりがついたりテレビが映るのは、電気のお蔭と言う事を私たちは知っています。火力であったり原子力であったり、あるいは太陽光や風力などを源に電気が作られていることも知っています。それらによってつくられた電気は、人の感覚器では直接とらえる事は出来ませんが、物が動いたり、温められたり、明かりがついたりすることで、その存在を間接的に知ることが出来ます。発電所では、化石燃料を燃やしてお湯を沸かし、その蒸気の力でタービンを回転させて電気(電力)を発生させます。やかんでお湯を沸かして、その湯気の力で風車を回しているイメージです。
一方で、化石燃料とタービンがあれば電気を作れるでしょうか?答えは否です。化石燃料は、燃える事によって実行力のあるエネルギーとなり、それがタービンを動かすことで初めて発電所は機能します。言い換えれば、化石燃料は着火しなければただの物だということです。
着火するきっかけ
私たち人間は、働いたり食事をしたり、遊んだり休んだりして生活しています。
元気な時もあれば、そうでもない時もありますが、タービンは回り続けています。それではこのタービンを回し続けている根源は何でしょうか?飲食物や空気は活きていくために必要な最低限のものです。そこから私たちは何かを取り込んだり、抽出することでタービンを動かす原動力としています。それらを栄養やカロリーと呼んだり、酸素と呼ぶ場合もあるかもしれませんが、そういった概念の無かった時代の人たちは、その何かを「気」と呼んでいました。
食べたり呼吸をすることで「気」なる生命活動のエネルギーを得ていたと考えていたのです。
「気」とは言葉ではうまく言い表せないものです。カロリーや酸素は間違いなく「気」を作り出す材料の中に含まれますし、物質として特定できるものは、どこかで線引きが出来そうですが、「気」の本質は機能や熱に変換され発現するため、「気」だけを取り出して指し示せるものではありません。流体のようにふるまう固体のようなものであり、物質のようにふるまう非物質の素振りをする現象ともいえる何か、と言うチグハグは定義になってしまいます。
一方で、発電所のタービンを回すのには、化石燃料に火をつける必要があります。それはスイッチか、または種火のような根本的なきっかけであり、我々が生命活動を行う当初にも、同じようなスイッチがあったはずです。
生命を構成するすべての物質や、必要な栄養素を試験管の中に入れてかき混ぜても、そこから何らかの生命体を得ることはできないそうです。物質や条件をどんなにを整えても、スイッチが押されることが重要です。昔の人はそれを「精」といいました。生き物が活動を開始するスイッチであり、決して永続はしないが長らく燃える種火のようなものです。
それはヒトに生まれたならヒトのように生きるのであって、ヒトに生まれながら鳥の様には生きられないように、「精」は生き物に秩序を付与するものです。生き物は、「精」と言う種火に「気」と言う薪をくべながら、精尽きることなく元気を保ちながら生きようと日々試みているのかもしれません。
日常的に「気」を感じる事はあります。元気がある人を見て、この人は気の充実した人だと感じる事があります。
元気、やる気、勇気、根気、、、、気力、気概、気性など、日常が「気」に満ちていることは、何となく言葉からもうかがい知ることが出来ますが、「精」を意識する事はあまりありません。
「精」は、充実した「気」の根拠となるもので、元気があると言うより、もっと深い生命力の様なものです。「精気を養う」という言葉にはその様な含蓄があるのかもしれません。
気の充実
東洋医学の視点で人を診る時には、多くは「気」の充実度を観る視点が重要です。
「精」の充実度を考えるのは、体がどんどん成長してくる小児期と、加齢に伴う症状が顕著になる老衰期、生殖にかかわる時期など、限られた時期だけです。
日常的に健康な人が、体調を崩した程度では「精」が損なわれることはあまりなく、働きの低下した「気」の充実の回復を以て代償できると考えているからです。ですから日常的には「気」の充実を図ることが、生き生きとした生活を送るためには大切です。
「気」のもとは、空気や飲食物から得られるものです。つまりは、それらを取り込む肺や消化器が充実していることが元気の基本です。肺や消化器を良く働かせるには、良く動き回ることです。自分の体力に合った範囲で動き回る事です。
しばらく続けていると、肺が充実して動ける時間が少しずつ増えてきます。お腹がすき、消化器が充実して良く食べられるようになります。「気」の入り口が充実してくるので、汗をかいたり、便通が良くなったりと、気の出口も充実してきます。
「気」の巡りが良くなると、気持ちが安定したり睡眠が改善したり、あるいは生活のリズムが整ってきます。便秘薬や睡眠薬を使って、部分的に「気」の巡りを整えようとする試みも一つの手段かもしれませんが、東洋医学で俯瞰的に体を眺めていくときには、部分的な気の異常は、全体の気の失調がもたらした結果であり、部分最適を寄せ集めても、全体最適にならない事のほうが多いという事実と向き合う必要があります。
多くの人が自然の雄大さに感動したり、草花の美しさに魅了されたり、生き物の誕生や成長に心動かされたり、健康な体をありがたがるのは何故でしょうか?子供のころには何とも思わなかったことであっても、成長して歳を取ると、いつしか毎日目の前で繰り広げられている当たり前の光景に感動したり、感謝するようになります。
人間が丸っこくなったとか、涙もろくなったとか、心が豊かになったとか成熟したなどと言いますが、同じ人間が経験を積み重ねていくうちに、ゆっくりとそのように変化していくことは、一つの成長のあり方かもしれません。
なぜそのような心境に至るのでしょう。それは、自然のむき出しな狂気をみたり、草花の儚げな気品に触れたり、生物が気高く生きていこうする姿に流れる「気」も、自らが受け取り自らが手渡す「気」と根本は同じであって、循環するそのとめどない「気」の潮流のなかで、ときおり極大化した大小さまざまな波に心を奪われていることに気が付きつつも、自らもその流れを担う一波であることに折り合いをつけ、そこに懐かしさのようなものを感じるからかもしれません。